読書記録

読んでいる本を紹介しています。

田中冨久子著「脳の進化学 男女の脳はなぜ違うのか」(中公新書ラクレ) 第1回

もし、自分に肉体がなかったとしたら、自分自身のことがはたしてどこまで判るだろうか。そもそも、自分自身とはどこにいるのだろう。魂?心?精神?

それが肉体のどこにあるか。脳にあるのだろうか。

 

トランスジェンダー(性別違和)である自分は、自分自身のことを男性である、と感じている。だが、それはあくまでも自認であり、そこに何の確証もない。

大学病院では心理テスト、精神科ではカウンセリングを幾年かうけ診断をされたものの、性自認が男性のひと、男性であるという意思が長く続いていて、違和感があり日常に困っているひと、トランスジェンダーでおそらく間違いないだろう、というだけで、自分の心が男性である物証は何もないのだ。

 

人間は記憶を改ざんすることもあるらしい。カウンセリングで語ってきた自叙伝が、女性の体から出たいがために自分も知らないうちに捏造した過去だったとしたら?女性性の否定、女性という性の役割から逃れたいだけなのだとしたら?自分は発達障害でもあるから、その特性が自分を女性だと思えない理由なのだとしたら?

 

なんの違和感や苦痛も感じず一生女性になりきれたのなら、人目に怯えたり親兄弟に罪悪感を持ったりといったあまたの不自由から解放され、フラットな場所から人生の努力ができる。それが解かりながら、自分は自分を本当の女性ではないと感じてしまう。どうしても苦しいと感じてしまう。

 

しかし、本当の女性とはなんだろう。自分が自分を男性だと感じるのはなぜだ?

 

たとえ自分にどんなに確証がある場合でも、物証が出せないのは不便でもある。お前はこうだから女性だ、お前はこうだから男性だ、とネットで交わされる喧々諤々の議論はナンセンスで、全くもやもやを解決しない。

 

そんなことを思うある日、尊敬する師に心とは脳なのか、脳に性差はあるのか、あればそれが物証となり得るのか話したところ、大脳生理学や、ある一冊の本をご紹介いただいた。それが、田中冨久子著「脳の進化学 男女の脳はなぜ違うのか」(中公新書ラクレだった。

 

この本は、こうだから女脳、こうだから男脳、といった類の本ではない。構成は4章から成っている。まず、現代人の脳はいかにしてサルの脳から進化し、脳は進化の過程でどのような行動を我々にとらせてきたのかが語られる。次に古脳の持つ攻撃性とそれをつかさどる扁桃体について。そして、第3章で新脳にふれ、よく語られる知的能力の性差について研究成果も含めてまとめていて、最後の第4章で古脳が新脳をどのように支配下においているか、性ホルモンをキーワードに紐解いている。

 

各章の要約をし、感想を述べていくことにしようと思う。

 

現代人の脳

 

脊椎動物の脳には、生命維持と種族保存の機能をもった古脳(このう)と、学習能力を持ち、環境や社会適応行動をおこさせる新脳(しんのう)の2つの部分が存在する。

 

生命を司る古い部分(古脳)に、可塑性が高く、変化に対して柔軟な新しい部分(新脳)が付け加えられるかたちで巨大化し脳は発達していった。

 

古脳は、爬虫類脳と原始哺乳類脳とも呼ばれる。

新脳は、新哺乳類脳とも呼ばれる。(米神経科学者P・D・マックリーンによる)

 

古脳…爬虫類脳と原始哺乳類脳は、広い意味での脳幹にあたる。

(脳幹…間脳、および終脳の一部の大脳基底核、中脳、橋、延髄)

脳幹は、個体の生命維持と、種族保存という基本的生命活動に関わっている。

この本のなかで、著者はこの部分を古脳と定義した。

(狭い意味では中脳、橋、延髄を脳幹と呼ぶ。)

 

新脳…新哺乳類脳は、新皮質を含む大脳皮質と大脳髄質から成る。著者はこの本のなかで海馬(辺縁系の古皮質部分)も含めて新脳と定義した。

新脳は、学習能力を持ち、環境への適応行動をおこなって、人間らしく生きるための脳である。

 

現代人のルーツ

 

ミトコンドリアDNAの特徴から辿った結果、60億人の全人類(ホモ・サピエンス)のルーツはたった1人の女性、イヴに収斂することが判った。また、この発見によりネアンデールタール人と現代人は、25万年前に分岐した遠い親戚であると判明。

 

なぜ、ネアンデールタール人は現代人になれなかったのか。著者は現代人とネアンデールタール人を比較している。

脳の大きさ…現代人約1450cc、ネアンデールタール人1600ccのものもあった。

身長が現代人よりもネアンデールタール人のほうが低いことを考えると、体重に対する脳の割合は、ネアンデールタール人のほうが若干大きい。

 

また、ネアンデールタール人は骨組みが頑丈で、強靭な筋肉を持っていたことや、20~30歳ぐらいまでしか生きられなかったということ、狩猟生活者であったとも推測されている。

 

反面、現代人は採集生活者であったことが、貝塚や石器から窺い知ることができる。

 

食糧の確保は、狩猟生活よりも採集生活のほうが容易である。さらに採集生活では、石器などを作る技術の発達ももたらされる。この違いが、ネアンデールタール人と現代人を分けたのではないか、とボルドー大学の人類学者B・バンデルメルッシュも指摘している。

 

脳はネアンデールタール人のほうが若干大きかったが?という疑問には、のちに他の脊椎動物の脳とヒトを比較した際に著者より、脳全体の重さだけを云々するよりも、個々の脳部位の大きさを比較するほうが重要であるとも考えられる、と述べられている。

 

大脳新皮質の中で、ヒトにおいて著しく増大したのは前頭連合野である。

新皮質全体に対する前頭連合野の割合は、ヒト29%、チンパンジー17%、アカゲザル11%。

 

前頭連合野前頭葉の前部を占め、感情、注意、思考、長期記憶などにも関わり、行動の意思決定、コントロールをおこなう。ブローカ性言語野があるのもここであり、前頭連合野は、ヒトが最もヒトらしく生きるためのはたらきをする部位である。

 

さりとて、脳の大きさはヒトと他の脊椎動物を大きく分けている。著者は次に、脳が大きくなるメカニズムについて幾つかの仮説を紹介する。

 

脳が大きくなるメカニズム(1ネオテニー(若さを保持する)仮説

 

ネオテニーということばは、日本語では幼形成熟、あるいは幼形進化(ペドモルフォーシ

ス)と呼ばれる。その意味は、幼児や胎児(さらに私たちの原始的な祖先の子どもや胎児)

に見られる特徴が、成人にも残存している、ということである。また、発育の速度が低下することや、生まれてから老いるまでの諸段階の過程が延長されることについても用いられる。

 

1984年に、バーゼル大学の動物学者、J.コルマンがはじめて、イモリなどの動物が幼形のままで性的に成熟するような変態過程を記述するためにネオテニーという言葉を用いた。コルマンは、ギリシア語のneos (若さ)とtenio (保持する、あるいは延長する)を結合させてネオテニーという語を作った。

 

ネオテニーの原理を採用した動物の進化の歴史には、発育の遅延、性的成熟に至る幼若期間の延長、および老年期間の切り捨て、がある。

 

したがって、子孫の成体は祖先の幼生に似てくることになる。

 

どういうことかというと、幼児期に子どものかたちを示すのは当然として、成長しても、特殊な成体型をとらず、あたかも子どもがそのまま成長したかのように見える。(幼形進化が最も成功した動物…アンモナイト、昆虫、ヒト)

 

ヒトの頭のかたち、顔のかたちは、おとなも子どもも含めてチンパンジーの子どものそれにとてもよく似ているが、おとなのチンパンジーの頭や顔のかたちとは似ていない。

 

はたらきの点でも、私たちヒトは、チンパンジーの子どもの部分だけを受け継いできた、というのがネオテニーの考えである。

 

ヒトは、からだのかたち、精神、感情、行動のいずれにおいても、幼児期の多くの特徴が成人期にまで保持される、

 

あるいは逆に強調するような方向で成長、発育する動物であるように進化した。

 

モンターギュによれば、私たちヒトは、ほんとうは幼児のままでいるように設計されているのだという。また、ヒトのようにネオテニーを示す種には未来が約束されている、というのである。

 

ネオテニーに対して、幼児期には子どものかたちを示すが、成育するにつれて祖先のかたちを示すようになる成体進化(ジェロントモルフォーシス)という進化のかたちがある。

 

先祖型が成体段階において成体型となる。効果としては、進化能力の減少で、結局は種の絶滅につながってしまう。大型類人猿(オランウータン、チンパンジー、ゴリラなど)がそれである。

 

モンターギュはからだのかたちについて例を挙げて説明している。ヒトにおけるネオテニーを一番明瞭に語っているものに頭蓋のかたちがある。

ヒトは、成体型的特徴への変化が極めて少ない。

 

チンパンジーの頭蓋とヒトの頭蓋を小部分に分け、各部の相対的な成長の度合いで比較すると、まず、両者の頭蓋は胎児期には驚くほどよく似ているが、成体になるとかなりの差がある。

 

成長にともなう変化はチンパンジーで大きく、ヒトでは小さい。(ヒトでは、 おとなの頭蓋の図と新生児のそれとを重ね合わせてみると、大きさが違うだけで、ほとんど一致する。)

 

サルや類人猿の成体型の特徴は顔面部と顎(あわせて顔面頭蓋という)の著しい発達、大型の歯、頭骨稜、眼窩上隆起(眉稜)もある。

 

ヒトの成体では、このような特徴はほとんどない。(ただし、例外として、顎はヒトにおいてより発達する。)

 

ヒトは進化の途上、これらの類人猿の特徴を次々に捨ててきたが、それは、胎児段階をひきのばしつつ、そして脳の発達速度を加速化することによって行われたのだとモンターギュはいう。

 

ヒトの顔面頭蓋には、たくさんの幼形が保持されている。頭部の軸と体部の軸(背骨の方向)が互いに直角をなしている。これは脳屈曲と呼ばれる。

 

ヒト以外の哺乳類では、その後、頭部が回転し、背骨の方向と頭軸が同じになる。(イヌのからだを考えてみるとよくわかる。大型類人猿では頭部の軸は斜めに傾く。)

 

ヒトでは、生後も脳屈曲を保つが、これが人類の直立姿勢を可能にしたとアムステルダム大学解剖学のL・ボルグは考える。

 

脳屈曲と関係するが、脊髄の通る頭蓋の開口部(大後頭孔という)の位置もヒトでは特有

ネオテニーを示す。

 

ヒトは、胎児もおとなも、大後頭孔が頭蓋底の中にあるが、ヒト以外の霊長類では、成体になると後方にずれる。

 

全ての霊長類は、胎児期には脳屈曲により、頭蓋底の前部は下方に傾斜し、顔面も頭蓋底の下にあり下顎も未発達であるが、

 

成体になると、

 

ヒトは、顔面頭蓋(鼻骨、上顎骨、下顎骨)の傾斜は垂直に近づいて、正顎(オルソグナティズム)または平面的な顔を持っているのに対し、

 

ヒト以外の類人猿は、下顎が突出して、斜め前方につきだすという特徴的な顎(突顎、プログナティズム)となっている。

 

他の霊長類にはない、ヒトの顔にある特徴的な鼻もネオテニーの産物で、これは、突顎を捨てざるを得なかったヒトが生き残るためにつくり出したものだという。

 

突顎は、広い粘膜を持っていて、粘膜細胞の分泌液は、吸い込む空気中の有害物質の処理をしたり、湿気を与えたりして、霊長類の生存にとり重要なはたらきをしているが、ネオテニーによって突顎のなくなったヒトは、代替物として鼻を発達させたと考えられる。

 

脳を容れる丸い容器(脳頭蓋という)に関連して、ヒトのネオテニー的特徴が指摘されている。

 

まず、どんな霊長類と比較しても、ヒトの頭蓋容量の大きいこと。容器(容量)が大きい、ということは、すなわち脳が大きいことと関係する。

 

出生時のヒト幼児の脳の重さは 372gで、体重比にして10%を占める。脳重量の増加が止まるのは約20歳で、1396gとなり、体重比2.2%となる。

 

成長の速度は、出生前3カ月から 3年くらいまでが最も急で、脳の全成長の 8%が3年目の終わりまでに達成され1115gとなる。

 

ヒトの脳は、生後3年までに最も急激な成長をし、さらに20歳代の終わりまでゆっくりと成長していく。(このことこそがネオテニー的であるというゆえんである

 

対して、カニクイザルや小型類人猿のテナガザルでは、出生までに脳の成長の70%がすんでおり、残りは生後6カ月のあいだに完了する。

 

大型類人猿(オランウータン、チンパンジー、ゴリラなど)では、脳の成長の活発な時期は生後1年までである。

 

大きさが増すことを成長と呼び、神経回路の複雑さを増すことを発達という。脳の発達も、ヒトでは生後何十年にもわたって行われるという特徴があり、やはり、ネオテニーの良い例である。

 

脳あるいは脳重量の絶対的な大きさが巨大化したという評価の他に、からだの大きさあるいは重量に対する脳や脳重量の相対的な大きさが増したという評価も重要である。

 

ヒトの脳は、あらゆる動物の中で、体重に対する脳の重量が大きい。「頭でっかち」は子どもの特徴である。これは、ヒトでは、頭とからだの比率もネオテニー的に進化したことを物語っている。

 

しかし、ヒトの脳の成長・発達のネオテニー的特徴は、裏返せば、ヒトは他に類を見ないほど未熟な状態で生まれるようになってしまったということができる。

 

哺乳類の進化には、妊娠期間が長くなり、新生児がより成熟した状態で生まれるようになる、という一般傾向があるが、ヒトの妊娠期間は類人猿とほとんど同じなのに、ヒトの新生児は類人猿の新生児よりも未熟な状態で生まれてしまう。

 

そして、出生後も、未熟な期間は、どの胎生の動物よりもずっと長い。はいはいができるまでに9カ月かかり、歩けるようになるのに、さらに4〜6カ月を必要とする。(ゾウ、サイ、ラクダ、ロバなど、胎児が子宮内に長くとどまる動物は生まれてすぐに自分の足で立ち、母親や群れとともに駆けることができる。)

 

早産に近いやり方で生まれてしまう理由の1つは、ヒトの新生児の脳が大きいことである。類人猿に比べ、ほぼ2倍もある大きな頭を産出しなければならない。

 

また、ヒトが直立姿勢をとることになった結果、女性の骨盤のかたちに変化が起こり、胎児の頭が通過しにくくなったことも1つの理由である。

 

そのため平均279日で出産することが必須なのだという。

 

また、脳以外においても、ヒトほど成長・発達の遅い哺乳類はいない。妊娠期間は別として、幼児期、小児期、思春期、青年期、壮年期、老年期、といった各ステージが、類人猿と比べ、ヒトでは大きく延長している。

 

幼児期は大型類人猿のほほ3年に対し、ヒトではほぼ6年、

 

小児期は類人猿の 3年に対し、ヒトでほぼ6年、

 

思春期は類人猿が4年弱、ヒトで9年、

 

青年期と壮年期は類人猿で12年、ヒトで35年、

 

老年期は類人猿で10年、ヒトで25年である。

 

したがって、ヒトの一生の長さは、類人猿より50年以上長くなっている。

 

類人猿の一生とヒトの一生とを比較して、なにが最も異なるのか、そしてヒトはその50年のあいだに何をするのか、を考えると、ここでもネオテニーによってヒトの知能の進化があったたことが解る。

 

ネオテニーによって、ヒトの脳の可塑性、柔軟性が維持され、学習行動が可能になった。ヒトだけが、生涯、脳の成長·発達ができるようになったのである。

 

ネオテニーによって、ヒトは子どものこころを生産涯持ち続けることになった。

 

子どものこころ、モンターギュ曰く、愛したり、愛されたいという欲求、友情、好奇心、考える欲求、詮索好き、知識欲、学習欲、想像力、創造性、偏見のなさ、ユーモアの感覚、遊びのこころ、喜び、誠実、楽観、快活さ、思いやりなどは、子どもの精神である。

 

子どもに特徴的なこのような精神が、おとなになっても維持されることが、ヒトが適応的な学習行動をおこなううえで重要な役割を果たすことになるという。

 

(子どものような好奇心を持ったおとなこそは賞賛に値する性質なのだ、ヒトは、本当に、いい年をして遊ぶ唯一の動物である、と著者は述べている。)

 

類人猿では、いい年をしたおとなが遊ぶようなことはない。30~40年の生涯にわたって、雌ザルには月経周期が維持されるので、生きている限り生殖活動を行い、次世代を残すことに邁進する。あるいは、生殖活動を終えて次世代を残すと死ぬことになっている。(これは類人猿に限ったことではない。)

 

しかし、ヒトでは、女性の月経周期は50歳前後で終了する。月経周期がなくなるということは、排卵性の性腺刺激ホルモンの分泌が起こらなくなり、したがって排卵が起こらなくなる、ということである。

 

男性を含めて、現代ではこの年齢までかかって子どもをつくることは少なくなっているので、現実にはこの時点で子育ても終了してしまう。

 

したがって、この50年の人生が類人猿の一生と等価のものであると考えられる。そのあとさらに死ぬまでの30〜40年を生殖活動なしに、遊びつつ生きる。これがヒトのネオテニー進化により得られた成果だ。

 

ヒトの脳の成長は20歳代の終わりまで続くが、この成長を可能にした重要な因子が頭蓋骨のネオテニー的特徴である。

 

脳頭蓋のうち、丸天井をなす部分を頭蓋冠という。

 

左右一対の頭頂骨、その前にある前頭骨、後ろにある後頭骨が頭蓋冠をつくっている主要な骨である。

 

これらの骨は複雑に蛇行する境界線をなしてかみあって連結しており、縫合と呼ぶ。

 

縫合には、冠状縫合(額の上方部)、矢状縫合 (頭の正中部)、ラムダ縫合(頭の後方部)がある。

 

生まれる前には、まだ縫合ができるほど骨と骨とがくっつきあっておらず、境に未骨化の膜がある。これは、胎児の頭がせまい産道を通るとき、頭のかたちを変えるのに都合が良い。生まれる時、頭蓋冠のそれぞれの骨は屋根瓦のように重なり合う。

 

生まれてからも、縫合は、脳の成長が完成するまで開いている。完全に消えるのは、27歳の終わりをすぎてからである。

 

何らかの原因で縫合が小児期の早期に癒着したりすると脳容量の増加が妨げられる。これは、小頭症という病気を引き起こし、患者は知能の発達の遅れをきたす。

 

脳の成長・発達が、生後20年以上の長きをかけて行われるようになったことも、脳の巨大化を助けたといえる。

 

特に巨大化を果たした大脳新皮質の成長・発達は、環境刺激に反応して神経回路が複雑に形成されることにより成し遂げられるものであり、短期間に可能なことではないから、生後の短期間でしか成長・発達が行われなかったなら遂げられなかったと思われるのだ。

 

そして、この長期間にわたる神経回路の形成は、神経細胞の可塑性、あるいは柔軟性によって可能なのである。われわれヒトの脳の可塑性は、ネオテニー的進化によって得られた重要な特質と考えられる。

 

脳が大きくなるメカニズム(2) 生後の環境要因仮説

 

ここまで、脳が巨大に進化した仕組みとして、ネオテニー進化の仮説を挙げた著者は、ここで新たにもう一つの仮説を挙げる。

 

まず、手と脳の繋がりをみてみる。

 

生理学者、久保田競は、手の重要性を挙げている(1982年、「手と脳」、紀伊図屋書店)。

 

頭蓋骨の化石とともにまれに見つかるヒトの手の最古の化石は、アウストラロピテクスのものである。彼らが二足歩行していたらしいことは、下肢と骨盤の化石のかたちから想像された。そして、このヒトの手の骨の大きさとかたちは現代人の手とほとんど違わないので、おそらく現代人と同じくらい器用に手を使っていたらしい、という。

 

同じ地層から最古の石器も見つかっている。手は木登りにもよく使われたらしい。けれども、その脳容量は未だほとんど類人猿と変わらない大きさだった。

 

アウストラロピテクスから進化したホモ・ハビリスの名は、「手先の器用なヒト」として名づけられた。小さな対象をつかんだり、操作したり、石器をつくったりに有利なように、第2~第5指のかたちや親指と他の4指の中手骨関節の関係がうまくいくようになっていた。

 

ホモ・エレクトゥスの骨盤の構造は現代人と同じで、完全に直立歩行に適応し、より高く直立していた。その手は、確実にものをつかむことや、各種の道具 (石器)をつくることができた。脳はかなり大きくなっていた。

 

ホモ・サピエンスは、さらに巧妙な石器をつくり、儀式用や装飾用のものまでつくった。

 

われわれヒトのはるかな祖先が、二足歩行や道具の使用を始めていた時でも、その脳はチンパンジー程度の大きさであったことは重要なことであると久保田はいう。

 

手や足からの脳への刺激が脳を発達させる重要な要因になったということができ、あとは、お互いに刺激しあいながらからだと脳の発達が進行した、と考えられるが、200万年前頃から顕著になった脳容量の巨大化が、それだけで起こるわけではないともいう。

 

道具を使用して生活することや、狩猟採集という生活様式が手足からの情報量を増やすと同時に、その他さまざまな情報をも増やし、脳の進化に影響したと考える。

 

生活が計画的になって、知的生産にも脳が使われるようになるとさらに脳の拡大が起ったと久保田は推測する。

 

久保田の推測と呼応するように、澤口は、3大要因として、食性、雌雄の関係を挙げている。澤口によると、霊長類の脳と新皮質の進化的発達に食性が重要な役割を果たしている。

 

果実食性の霊長類と菜食性のそれを比較すると、脳も新皮質も果実食性の霊長類の方が大きいという。これは、餌を探すための活動(探餌活動)や戦略が脳の発達を促すうえで重要な要約因になる、という考えである。

 

探餌活動は、群れの遊動域の大きさに関係する。たとえば、サルが、あるお目当ての果実を食べるためには、空間的(どこにあるか)、時間的(どの季節にあるか)に、遊動域の中に分散している果実を探し出して食べることに適応していなければならない。

 

これに反して、菜食性のサルは、適当な樹木の木の葉を食べていれば良いので、遊動域が狭くてもすむのだという。

 

この違いは、果実食性のサルがより優れた空間的、時間的な認知や記憶の能力を必要とすることに関係することになる。つまり、前頭葉の新皮質の発達を促すことになるのである。

 

雌雄の関係が、一夫多妻型なのか、一夫一妻型(一妻多夫型も含まれる)なのかも重要な要因となると澤口はいう。

 

多妻型で、多くの雌がいて群れが大きいサルほど大脳皮質が大きく発達している。

 

果実食性の中ではテナガザルが一妻型で、チンパンジーが多妻型だが、この2種類のサルを比べると、テナガザルの新皮質の大きさはチンパンジーの半分だという。

 

そして、このような関係をつくる因子は、雌雄関係によってもたらされる社会関係で、多妻型の社会の方が一妻型の社会よりも社会関係が複雑になるので、脳をはたらかせざるをえないということのようだ。

 

また、多妻型社会では、性競争も激しくなる。雌をめぐる雄同士の競争が熾烈になり、これが新皮質の発達をもたらす要因となったのだという。

 

澤口は、雌雄の体格の違いを、雄の体重で割った値で表して性的二型と呼び、群れにおける 1頭の成熟雄あたりの成熟雌の数を社会性比と呼ぶ。多妻型社会のように性競争が激しい時、より力の強い雄が有利になるので性的二型の程度が一妻型より大きくなるという。

 

また、多妻型社会のサルの社会比の値も、一妻型に比べて大きい。

 

そして、これらの値と新皮質の大きさの関係を調べてみると、強い正の相関が見つかった。

 

性競争が激しいほど大脳新皮質がよく発達していることが証明された、としている。

 

しかし、澤口による、この多妻型社会の効用というのは、サルの新皮質の発達には役立ったかもしれないが、ヒト科になった私たちの祖先には無用だったように見える、と著者は述べる。

 

アメリカのケント大学、P・L・レノらの研究チームは、アウストラロピテクス·アファレンシス(アファール猿人)がすでに一夫一妻制だった可能性があることを米科学アカデミー紀要(2003年)に発表した。

 

この猿人は320万年前のものと推定され、その化石はエチオピアのアファール地方で1974年に発見された。

 

個体一体の全身骨格の約40%に相当する化石から、身長が約1メートル 9センチで、体重が約27キロの小柄な猿人の持ちものであったことが推測された。

 

ここからの著者の閑話休題も興味深いので引用すると、

 

“話がそれるが、女性のものだったことを示す骨盤などの証拠もないにもかかわらず、当時の男性研究者はただちに女性と断定、「ルーシー」と名付けたことで、このアファール猿人は有名になった。

 異なる性、年齢などの比較の対照群がないにもかかわらず、小さいものは女、というすり込みが男性にはある、というのが女性研究者らの言い分だが、このことについてはこれ以上触れない。”

 

この発掘現場ではルーシー以外に幾つもの上腕骨の化石が発見され、これらのサイズの分析から、この時代の猿人の男女差は、体格の性差が明瞭なゴリラよりかなり小さく、チンパンジーよりはやや大きいものの、ほぼ現代人に近いという結果が得られた。

 

この結果は、雄が大きいゴリラのような一夫多妻制に特有な男女の体格差が、すでにアファール猿人では消失していたことを示している。

 

著者は、これまで一夫一妻制を獲得したのは約180万年前、原人に進化してからとの見方が有力視されていたので大変興味深い、とし、男女の体格差は性別役割の有無などに関わりを持ち、このあと第2章、第3章でのさまざまな脳機能の性差のメカニズムにも関係してくる、と注意喚起している。

 

脳が大きくなるメカニズム(3) 最新の遺伝子解析を用いた研究から

 

顎を動かす筋肉が減ったから、という仮説

 

2004年、アメリカのペンシルベニア大学などのH・H・ステッドマンらの研究チームが「ネイチャー」に、ヒトの脳が大きくなったのは、約240万年前に起きた突然変異で、顎を動かす筋肉 (咀嚼筋)が減ったからである、という論文を発表した。研究者らは、顎の筋肉の主要成分で、収縮力をもたらすタンパク質、ミオシンに注目し、その遺伝子の違いを

 

ゴリラやチンパンジーなど7種類のサルと、アフリカ人や日本人など6人種のヒトのあいだで比較したところ、ヒトでは6人種ともMYH16という遺伝子に突然変異が起きていて、サルのものに比べて2カ所で塩基が欠けていたという。この結果、ヒトの顎の筋肉はサルより小さく、収縮力が弱くなっていることがわかった。

このことから、顎の筋肉が減ると頭蓋骨への圧力が弱まり、大容量の脳を持てるようになるのではないか、という可能性が提出されたのである。

 

また、突然変異の発生確率などから、この変異が起きたのは 240万年前と推定されたのだという。アファール猿人では、この突然変異はまだ起きていないことも推測されている。

 

ヒトでもサルでも、幼児期には正顎(オルソグナティズム)であり、咀嚼筋を使うのは、自分で食物を食べるようになる生後である。

 

ヒトの成体が正顎という幼形を保持するのは、食物を食べるのに、強力な咀嚼筋によって顎を使う、ということを行わないためかもしれない。

 

サルの成体が突顎(プログナティズム)になるのは、強力な阻噌筋で食物を食べるため、顎の骨を発達させてしまうためかもしれない。

 

ネオテニーのメカニズムが先端技術によって明らかにされつつあるように思われる。

 

この仮説は、第3章の著者たちの実験とも相容れる。

 

その実験とは、離乳後に堅い餌によって飼育したラットの顎の骨のサイズが、 柔らかい粉状態の餌によって飼育したラットの顎の骨のサイズよりも大きかったのである。

 

しかも、粉状の餌で育ったラットは、堅い餌で育ったラットよりも、視覚・空間認知機能が優れていたのである。私たちは、今後、これらのラットの咀嚼筋の重さを測定しようと計画しているところである。

 

異常紡錘体様小頭症関連遺伝子の変異という仮説

 

アメリカのハワード・ヒューズ医学研究所の研究員で、シカゴ大学分子遺伝学・細胞生物学者のB・ランらの研究チームは、ヒトの脳の大脳皮質の拡大に関与すると見られる遺伝子を同定したと発表した(2004年)。

 

彼らは、異常紡錘体様小頭症(ASPM)に注目した。

 

ASPM遺伝子が機能障害を起こすと、計画、抽象的推論、その他、高度な脳機能を担う大脳皮質のサイズが大幅に低下する小頭症になることから、ヒトASPM遺伝子の配列を、ホモ·サピエンスにつながる進化の段階において遺伝的に重要な位置をしめる他の6種の霊長類のASPM遺伝子の配列と比較したのである。

 

6種の霊長類は、チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、テナガザル、マカク、ヨザルである。

 

タンパク質の構造を変化させる遺伝子変異のみが進化の圧力を受けると思われたので、

 各種の霊長類について、タンパク質の構造を変化させるASPM遺伝子の変異と、

 タンパク質の構造変化をもたらさないASPM遺伝子の変異を特定した。

 

タンパク質の構造を変化させない遺伝子変異は、全体の変異率(進化的な変化が現れるランダム化変異のバックグラウンド)を示すので、これら2種類の変異の率は、自然淘汰の圧力下にある遺伝子の変化の尺度になるという。

 

その結果、ASPM遺伝子はヒトにいたる系統において、進化圧力により変化が促進され、この促進はヒト科がチンパンジーから分かれたのちの進化において最も著しいことがわかったという。

 

さらにランらは、より原始的なサル、ウシ、ヒツジ、ネコ、イヌ、マウス、ラットなどにおける ASPM遺伝子を分析したところ、進化的変異の促進が認められなかったと述べている。

 

また、ランらは、ヒトにいたる類人猿系統においてはASPM遺伝子の進化が促進され、他の哺乳類では促進されなかったという事実は、ヒト系統が特殊であることを証明している、とも述べている。

 

この遺伝子により生成されるタンパク質は、大脳皮質の細胞分裂によりつくられるニューロンの数を調節する可能性があるので、今後、この検証を行うのだという。

 

 

…以上が、第1章「地球の今をつくった現代人の脳」の内容である。

読書しながら内容をできるだけ噛み砕いて要約しようとしたが、そのまま引っ張ってきた箇所が特に後半、多くなってしまった。(異常紡錘体様小頭症関連遺伝子の変異という仮説、のセンテンスはまだうまく理解できずにいる。)

 

ともあれ、第1章では脳の進化についてや、ヒトという生き物がサルとどのように分かれたかを学ぶことができた。次回は古脳のはたらきについて読み、まとめていこうと思う。